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作業台に載っていたのは剪定用の鋏だった。
カミユの愛用品なのだろう、よく手入れされて光っている。
ルードヴィッヒはその鋏を一瞥すると、ゆっくりと手を下ろしてからナオジに視線を戻した。

「ひと思いにとは、薔薇を?」
「まさか!!」

ナオジが突然大きな声を上げた。

「カミユが大事にしている花です! それを個人的な事情で切るなど、ここを水浸しにしてしまうよりも重罪だ」

必死な口調からは、友人であるカミユと、そしてこの温室を本当に大切に思っているのが伝わってくる。
ルードヴィッヒは目を細めてナオジを見つめた。

「そうだな、私もここの花を無闇に切るのは歓迎しない」
「ですから、切るのは―――」
「おまえの髪を、私に切れと?」

ナオジを遮って発せられたルードヴィッヒの言葉は、どことなく怒りを滲ませたようにも聞こえる。

「…はい。 これ以上、貴方の貴重な時間を潰させるわけにもいきませんから」

ナオジはルードヴィッヒから目を逸らせると、恐縮した様子で項垂れた。

「駄目だ」
「?!……」

ルードヴィッヒの否定が意外だったのか、顔を上げたナオジが無言のまま薄紫の瞳を凝視する。

「この絹糸のような黒髪は、おまえによく似合っている」
「ですが…」
「清楚な美しさも、おまえの一部だ」
「……」
「その美しさが損なわれるのは、私が認めない」
「!」
「おまえは私にとって、大切な存在なのだから」
「ルーイ…」

ナオジの目元から頬にかけての肌が、ほんのりと赤味を帯びた。

「これを持っていろ」

ルードヴィッヒは指先の動きを鈍らせていた原因である手袋を両手とも外し、ナオジに渡した。
あくまでも優雅なその仕草にナオジが目を奪われているうちに、再び黒髪との格闘を開始している。
枝も髪もどちらも痛めることの無いよう、慎重に取り組んでいる様子が気配となって空気を伝う。
誘惑に駆られてナオジが盗み見た横顔は、とても真剣だ。

「!……」

ルードヴィッヒの動きが一瞬止まった。
しかし、またすぐに再開し、それから程無くしてナオジは囚われの身という立場から救出されたのだった。

「おまえが薔薇共の虜囚とならずに済んだのは喜ばしいことだ」
「有難うございます、助かりました」

素直に礼を述べて手袋を返そうとした時、ナオジはルードヴィッヒの中指の甲が赤くなっているのに気付いた。

「ルーイ!」

慌てて水差しと手袋を作業台に置いてから、ルードヴィッヒの手を掴む。

「血が…っ!」
「ああ、たいした怪我では無い」
「…薔薇の棘に刺されたのですね……」
「私の不注意が招いた結果なのだから、おまえが気に病むことではあるまい」
「いいえ!」

首を横に振ると、ナオジはルードヴィッヒの手を両手で握り直した。

「失礼します」

一方的にそう断り、傷口に顔を寄せる。

「何…を……?」
「応急処置です」

答えつつ、唇が指へと近付いて行った。
有無を言わさぬナオジの様子に気圧されたのか、ルードヴィッヒはされるがままになっている。

強い口調とは裏腹におずおずと指に触れた唇が、優しく傷口を覆った。
ゆっくりと、丁寧に、舌先が流れ出た血を舐め取る。

口に含まれた部分が温かい。
僅かに染みる刺激でさえ快感に転化しそうだ。
傷の手当てをされるのは初めてでは無いものの、このような感覚は今まで経験したことが無い。
ルードヴィッヒはそのまま動かず、懸命に奉仕するナオジの口元をじっと見つめた。
胸の鼓動がいつもよりも速く大きく聞こえるのは錯覚では無いのだろう。
こんな風に高揚する自分自身の存在を、ルードヴィッヒは今まで知らなかった。

「ナオジ……」

思わず出た声が微かに上擦っている。
色気さえ滲んでいそうなその声を聞いて、ナオジは夢中で舐めていた指から顔を上げた。
手は離さないままポケットからハンカチを取り出す。
真っ白で清潔なそれを歯で切れ目を入れて引き裂くと、傷付いた指に軽く巻いた。

「このくらいの傷でしたら慌てなくても大丈夫でしょう」

ナオジはまだ離れ難そうにして、壊れ物を扱うかのように恭しくルードヴィッヒの手を包んでいる。
傷付いた手はそのままに、ルードヴィッヒはナオジに向けて、自由な方の手を伸ばした。
俯いていたので顔を覆ってしまっていたナオジの長めの前髪に指を絡め、そっとかき上げる。

「!」

ナオジは驚いてルードヴィッヒを見上げた。
同時に、胸の奥で生じた一瞬の痛みを、否応無く自覚することとなった。

「この髪も、無事で何よりだ」

爪まで綺麗に整えられた指先が、ナオジのこめかみを通り、耳の形をなぞって、後頭部へと回ってゆく。
首の辺りで結わえている部分を軽く撫でると、束ねた黒髪を指先で掬い、掌に載せて静かに滑らせた。

「ルーイ……」

二人の視線が暫し交差する。
向けられる眼差しにナオジが惹き付けられている間に、ルードヴィッヒの指が毛先まで辿り着いてしまった。
余韻も残さず黒髪が滑り落ち、ナオジの肩の辺りで白い手だけが取り残される。

その瞬間、黒き瞳が微かに揺れた。
ナオジは思わず、掌の中の美しい手を胸に掻き抱いた。
そして、ハンカチを巻いた部分では無く、ビロードの如く滑らかな肌触りをしている手の甲に唇を押し当てる。
治療を目的とした先ほどの行為とは違う、それは、幾許かの想いが込められた、接吻。

「何を……している…?」
「傷が…早く治りますように、と………」

唇を離さないままナオジが答えた。
自分の為に傷付いてしまった、美しく気高い人。
今日のような失態はもう二度と演じまい。
自分は彼を傷付けるのでは無く、守る側に立っていたいのだ。
本当は優しく、そして寂しい横顔も時折垣間見せるこの人の傍にいたい。

―― ルーイ……自分は、貴方を………

ルードヴィッヒに触れていると、押し殺していた感情が溢れ出しそうになる。
もっと奥まで知りたいと望んでしまいそうになる。
しかし、それは許されないことだ。
崇高な思想を持ち己の目的に向かって突き進むルードヴィッヒを、己の想いで邪魔するわけにはいかないから。

ナオジはぎゅっと目を瞑って、その衝動に耐えた。
だがルードヴィッヒは、ナオジが抑えようとした熱い想いに応えるかの如く、その手を強く握り返した。

「!!……」

はっ、と思った時は既に、ルードヴィッヒの手がするりと引かれてゆくところだった。
優雅な軌跡を描く手は作業台に置かれていた手袋を取り上げ、嵌めずに両方まとめて片手で握った。

温もりが自分から離れてゆく寂しさを堪えて、ナオジは毅然と顔を上げる。
そこに居るのは、いつもと変わらぬ、姿勢を正した凛々しい姿の、ひとりの若きシュトラール候補生だ。

「医務室できちんと手当てを受けてください」

ナオジがどこか事務的な口調でルードヴィッヒに接する。
それは、表に出してはならない想いを胸の奥に仕舞い込む為でもあるかのようだった。

「その必要は無い」
「しかし」
「このくらいで大騒ぎすることも無いのだろう?」
「ええ……」
「手当てはおまえに任せる。私の部屋で構わぬな」

耳をくすぐるその声に抗う術は持っていない。

「…承知しました」

傷の手当てをする、ただそれだけのことなのだが、自分が選ばれたのだという喜びに身体が打ち震えそうになる。

「最後まで責任を取ってもらおう」
「!」
「おまえは途中で放り出すような男では無いのだったな」
「はい」

逢う度に惹かれてゆく。
言葉を交わす度に、心を掴まれてしまう。
ルードヴィッヒと共に歩むことに、迷いが無いとは言い切れない。
しかし、今は、その側を離れたくないと願う。

――この巨大とも思える存在に、自分は魅せられ、引き寄せられてしまった……

それは、運命だったのだろうか。
なるべくして、こうなったのだろうか。

祖国を離れ遠い異国で、こんなにも心を寄せたい相手が現われるとは想像もしていなかった。
全身全霊を掛けて守りたいと思える相手に巡り逢えるとは考えもしなかった。
一時の異邦人のつもりでいた自分だったが、根本から考えを改めねばならぬようだ。
どんな未来を選択するか、今すぐはまだ、その決断は下せなくとも………。

「そうだ、何かご用だったのではないのですか?」

ナオジが水差しを片付けながら、椅子に腰掛けて待っているルードヴィッヒに尋ねた。

「珍しい紅茶が手に入ったのだが、おまえと一緒に味わいたいと思ってな」
「嬉しいです、ルーイ」

喜びの感情を素直に表せるようになったのは、ルードヴィッヒに出会ってからかもしれない。

「では、自分がお淹れします」
「ああ、頼む」

短く応えると、ルードヴィッヒは組んでいた足を下ろして立ち上がった。
颯爽と歩く後ろ姿に、ナオジは思わず見惚れてしまう。

「何をしている、行くぞ」
「はい」

心地良い響きに心と身体を促され、翻る紫色のマントの後を急いで追って行った。

――ルーイ、貴方は本当に、僕を惹き付けて離さない……

眼差しの中から、言葉の端々から感じられる、自分へ向けられた優しさを大事に胸に納める。
その優しさに応えたい。
貴方の理想の相手になりたい。
自分の理想の相手は、もう見つかったから………。

歩くと揺れる長い髪をうっとりと見つめつつ、ナオジはルードヴィッヒのコレクションを脳裡に思い浮かべていた。
お茶を用意する時はいつも、

「ルーイはどのカップで飲みたい気分だろうか」

と想像するのが、ナオジの愉しみのひとつでもあるのだ。
見事な細工が施されたティーカップの数々は、眺めているだけでも時を忘れそうになる。
それらは、「いつでも自由に使用して構わない」 と持ち主から許可を得ていた。
尤も、ティータイムは必ずと言っていいほどルードヴィッヒと過ごしているので、ひとりで使ったことは無いのだが。 

今日もまたナオジは、彼の為にどのカップを選ぼうかという心躍る悩みを抱いてルードヴィッヒの部屋を目指した。
今、一番信頼を寄せている想い人と、歩調を合わせて歩きながら。

温室を出た二人の頭上では、黒い羽に紫の紋様が鮮やかな蝶がひらひらと舞っている。
その蝶はやがて、青く澄み渡った空に吸い込まれて消えていった。











素敵なナオジ×ルーイ様小説をありがとうございました(≧∇≦)//
本当はかなり以前にいただいていたのですが、発表に時間がかかってしまって
申し訳ありませんでした(T▽T)
もう手先のぶきっちょそーなルーイが、一生懸命こんがらがったものを解こうとしてる
だけでも可愛いんですが、しっとりしたマイネの世界で、何とも優美なルーイ様の
誘い受けっぷりにクラクラしました(照) どこまでもお世話してあげてねナオジ!
また次回作も是非にお願いいたしますっっっ

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