マイネリーベ
ナオジ×ルーイ

引力

小説 遊亜様





「カミユ?」

賑やかなほどに木々が茂り花々が咲き誇っている温室に、涼やかな声が響く。

「どこです?」

規則正しい足音で入ってきたナオジの顔から、穏やかに浮かべていた笑みが引いた。

「いないのですか…?」

授業終了の後、夕食の席に着くまでの自由時間は、いつもここでカミユが熱心に植物の世話をしている。
日課の鍛錬を済ませたナオジは、今日もまた手伝おうとやって来たのだ。

学園には慣れたが、ナオジにとって異国での生活はまだまだ気苦労が多い。
それ以上に、シュトラール候補生に相応しくあらねばと、自分で己を厳しく律している部分もある。
常に姿勢を正して気を張り続けている日常の中で、唯一安らげる空間がこの温室だった。

木々の緑に囲まれていると心が落ち着く。
美しい花を見ていると心が和む。
この中にいる間だけは、石月直司でもシュトラール候補生でも無い、ただの一人の青年に戻ることができる。
背負っているものからも束縛するものからも解放され、伸びやかな自分が取戻せる貴重な時間。
だから、ナオジは毎日のようにこの温室へと足を運んでいた。

ただ、それはナオジだけでは無さそうだった。
普段はカミユに加え、エドヴァルドや、時にはオルフェレウスまで訪れていたりもする。
皆、そうとは意識せずとも、何かしらの癒しを求めているのかもしれない。
そんな憩いの場所でもあるのに珍しく人の気配がしないのだから、不思議に思うのは自然な流れだろう。

ぐるりと見回してみたが、やはりカミユの姿はどこにも見えない。
すれ違ったのかとも思ったが、そうでも無いらしい。
カミユが来たならば、水遣りはとっくに済んでいるはずだ。
しかし、たっぷりと水分を与えてもらったならば土肌はしっとりと湿っているだろうが、今は乾いている。

「何か用事でもできたのか…」

手伝うと約束をしていたわけでは無い。
けれど、せっかく来たのだから少しだけ花に水を遣ってから戻ろうと思い、ナオジは水差しを手にした。

カミユはいつも、植物達と会話をしながら手入れをしている。
その様子をずっと見て来たからなのか、ナオジも少しは感じ取れる気になっていた。
どの花が水を望んでいるのか。
どの葉が暖かさを欲しているのか。
もちろん、カミユのような直接の会話は無理だが、状態を見て察することはできる。

水を汲み入れ、零さぬ為に慎重に足を運びながら、毎日水遣りが必要な花を先ず目指した。
いつもカミユが回る順番の通りに水差しを傾けてゆく。
ただ、手入れにもカミユの都合があってはいけないので、最低限の作業だけを心掛けて動いた。

「特に異変は無さそうだな」

今日の状態をカミユに報告すべく、水を遣るついでに隅々まで丁寧に見回ってゆく。

「………」

最初はきびきびと作業していたが、ふと立ち止まったナオジの表情がみるみる曇っていった。
木々や花々とこんなに近くで接しているのに、ひとりぽつんと取り残されたような気分になってしまったのだ。

いくらじっと見つめても、植物からは何の反応も返ってはこない。
当然といえばその通りなのだが、どこか空しくて……。
花が喜んでいる声が自分にも聞こえればいいのに、と少しだけ思った。

寡黙を美徳とする父親の姿を見て育ってきたナオジは、どちらかと言えば喋るのは苦手な分野に入る。
必要な会話はもちろんこなすし、議論となれば積極的に発言する。
けれど、例えば女性に対してであったり相手と交流を図らねばならない席では口数がぐっと減ってしまうのだ。
それで誤解を招いた場面が無かったとは言えないが、ナオジはいつも行動で示してきた。

そんなナオジにとって、心で花と言葉を交わしているカミユは羨ましい存在だった。
黙っていても思いが伝わるような、そんな相手と巡り会えたならばどんなに幸せだろう。
花と接している時のカミユを見ていると、つい空想を思い描いてしまいそうになる。

(理想の相手、か………)

頭に浮かぶ像はまだはっきりとは形作らず、霧に覆われている。
ただ自分の本心は、伴侶としての女性では無く、同志を求めているように思えた。
きっとどこかにいるはず、と淡い期待だけを胸の奥に仕舞い込む。

「おや?」

水を遣っているうちに物思いに耽ってしまっていたが、再び歩き出そうとした時、目に映ったものがある。
一番奥まった場所で見つけたのは、一輪の花。

「昨日見た時はまだ蕾だったのに」

ナオジの視線の先には、小さな白い花が可憐な佇まいで咲いていた。
華やかさは無いのだが、とても美しい。
小さくとも日々確実に成長している姿を見て、ナオジは身が引き締まる思いがした。

「今度、カミユにこの花の名を教えてもらおう」

花弁にそっと手を触れ、柔らかく微笑む。
そして、白い花にも水を与えようとした。
…が、既に水差しの中は空だった。
ナオジはもう一杯分だけ労働することを決め、水差しを再び水で満たしてから、また奥の一角まで戻ってきた。
その時。

「ん?……」

不意に、意識を引かれる。

「今のは……」

そう呟いて振り返った瞬間、束ねていた髪の毛が薔薇の木の茂みに取られてしまった。

「あっ!」

すぐさま空いている片手で解こうとしたのだが、複雑に絡んでいるのか上手くいかない。
持っている水差しを下ろせば両手が使えるものの、地面に置く為にしゃがもうとすると頭を引っ張られてしまう。
下まで手を伸ばすにも距離があり過ぎた。
近くにはスコップなどが置かれている作業台もあるのだけれど、そこにも手が届かないのだ。

「困った…」

無理に離れようとすれば、木に負担を掛けてしまうかもしれない。
せっかく咲いている薔薇の花も傷めてしまうだろう。
たった今の出来事なのだから、決して取れないほどには絡まっていないはずだ。
そう考えて何とか片手だけで処理すべく懸命になっているところへ、ゆっくりとした足音が近付いてきた。

「ルーイ?」
「よくわかったな」

茂みの向こうから現れたのは、ナオジと同じシュトラール候補生のルードヴィッヒだった。

「貴方ほど優雅に歩く人を、自分は他に知りませんから」

行動を共にする機会が増えた為、ルードヴィッヒの足音は斜め後ろでよく耳にしている。
常に気品と貫禄を失わずに歩く後姿を間近で見られる定位置は、ここ最近はずっとナオジのものだった。

「おまえが背筋を伸ばして歩く姿勢にも、私にはある種の優雅さを感じるがな」

ルードヴィッヒが、皆の前ではほとんど見せない穏やかな表情で応えた。
厳しい顔付きの時が多い彼だが、ナオジを見る瞳はとても優しく、温かい。

「ルーイ……」

この眼差しが己にのみ向けられる贅沢さを、ナオジは肌で感じた。
学園中の憧憬を集めずにはいられない孤高の青年。
自分にとっても憧れの存在だ。

「ところで」

ルードヴィッヒは一旦そこで言葉を区切った。
たっぷりと間を持たせる話し方もルードヴィッヒ特有のものだが、さらに特徴的なのはその声だった。

ルードヴィッヒの声が演説などで朗々と響き渡っているのを聞く機会は多々ある。
よく通る低音の美声は、人々を魅了して止まない。
真剣に聞いていても、内容を理解するより先に、つい声の方にうっとりと耳を傾けてしまうほどだ。
それはナオジであっても例外では無かった。

「おまえはここで何をしている?」
「あっ……」

ナオジは、今更のように自分の置かれた状況を思い出した。
咲き誇っている真紅の薔薇を背にして、片手には水差しを持ち、もう片手は頭の後ろへやったまま動かずにいる。
この奇妙な体勢に対しては、訝しげな視線を送られても仕方が無い。

「実は、珍しい蝶が舞っていて……」

黒髪から手を下ろしつつ、ナオジが答える。

「蝶だと?」
「ええ……」

役目を果たせなかった手は、いつものように身体の側面に沿って真っ直ぐに下ろされていた。
その凛とした佇まいはルードヴィッヒの好むものでもある。
やや鋭くなっていた眼差しも、すぐに和らいだ。

「この温室で昆虫に出くわすことはたまにありますが、先ほどの蝶は自分が未だ見ぬ種類に思えたのです」
「それは、是非私も見てみたいものだな」
「きちんとこの目で見届けたなら、どんな姿をしていたのか、ルーイにもお話できたのですが…」
「とは?」
「確認の為に振り返った時、髪が枝に絡まってしまって…。 片手で取ろうとしたのですが、上手くゆかず……」

ナオジが素直に白状すると、ルードヴィッヒは手を腰に当ててふっと笑みを漏らした。

「ならば、そのもう片方の手に持っている物を放り出せば、すぐに解決するのでは無いのか?」
「ここはいつもカミユが心を込めて手入れをしている処です」

それまでの困惑と不安が混ざったような表情とは違って、ナオジは真っ直ぐにルードヴィッヒを見て話し始める。

「自分がこの水差しを手離せば、中の水をぶちまけてしまうことになります」
「そうだな」
「彼の大事な場所を荒らすのは忍びない」
「一時は悲惨な状態に陥ったとしても、いずれ水は地面に染み込んでゆく。 ならば問題無いのでは?」

そう言われて、ナオジは表情を硬くした。

「確かに、仰る通りです……」
「黙っていればわかるまい、とは思わぬのか?」
「いいえ」

ナオジの瞳に、強い意志の煌きが加わった。

「自分のせいで彼の世界が崩れてしまうのは、一番自分が許せません。 それが例え、一瞬でも」

控えめな言動が多い印象のナオジだが、芯の強さはルードヴィッヒも既に把握している。
“真っ直ぐな強さ” は、自分がこの青年を好む要因のひとつでもあるのだ。
それをもっと感じたくて、ルードヴィッヒはもう少しだけ追い詰める台詞を考えた。

「カミユはオルフェレウスとエドヴァルドに誘われて街まで出掛けて行った。 しばらくは戻らないだろう」

試すような戯れ合いは、気の置けない仲間だと認めているからこそ。

「……しかし」

仕掛けられたナオジにはルードヴィッヒほどの余裕は無く、返答に困ってしまった。

「地面が乾くまでの時間は充分にある」
「それでも…」
「ん?」
「自分は、………不器用なので」

とことんまで追い詰めても屈しないナオジに、ルードヴィッヒは改めて好印象を抱いた。
やはり、自分が見込んだだけのことはある。

「ふっ…、それがおまえの良いところでもあるがな」
「ルーイ……」

はにかんだような顔を見せたナオジに、ルードヴィッヒが嫣然と微笑を送る。

「それで? まだそのまま努力を積み重ねるつもりなのか?」
「いえ……、自力では限界があると、そう思っていたところです」
「今、この温室内に居るのは、私とおまえの二人だけだな」
「ルーイ……申し訳ありませんが、手を貸していただきたい。 貴方の御手を煩わすのは心苦しいのですが…」
「構わぬ、おまえになら」
「感謝します」

協力の承諾を得ることができ、ナオジはようやく肩の力を抜いた。

「では、これを……」

持っていた水差しをルードヴィッヒに預けようと、両手で差し出す。
だが、白い手袋を填めた手はナオジの行動よりも先に、迷い無く黒髪に伸びていた。

「っ?! ルーイ!! 取るのは自分でしますから! これだけ受け取ってくだされば―――」
「動くな」
「……はい」

横に立つルードヴィッヒから静かに命令されて、ナオジは大人しく従った。
物音がしない空間で、互いの息遣いも聞こえそうな距離にいて、ぴんと張り詰めた緊張感が辺りを支配する。

不意にルードヴィッヒの動きが止まった。
できないことは何も無いと普段から豪語していたが、すぐに解けそうに見えた問題は簡単では無かったらしい。
ナオジの頭の後ろで小さな溜め息が漏れ聞こえた。

「ルーイ、ひと思いに切ってください」

あれで、とナオジが指し示した先にあったのは作業台で、その上では刃がキラリと日光を反射していた。








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