アデスはまるで異世界でも見るような表情でそこに立っていた。
軍人一筋に生きてきたアデスにとって社交界とは縁遠い場所だった。そこに居合わせたのは命令と言っても差し障りない、上司の一言。
『明日、仮面舞踏会に行くぞ』
アデスは二度、聞き返した。普段の彼ならば考えられぬ行動であるし、上司も同じことを二回も三回も言ってくれるタイプではなかった。
だが、その上司は二回目はわざとゆっくり繰り返し、三回目はアデスの耳元で囁いた。
『私と一緒に来いと言っているんだ』
逆らえようもない、綺麗な重低音がアデスの身体に響いて無意識の内にアデスの腕は上司の身体を抱きしめていた。
『これが返事だと受け取っておこう?話はこれで終わりだ。もう言葉は使わないからキスしていいぞ』
そんな言葉にアデスは先ほどの話について深く追求することも忘れ、言われるままに口付けた。
そして、今。アデスは舞踏会会場の扉のすぐ横に立ち尽くして、小さな溜息をついた。あの時、ちゃんと話をして断っておけば良かった、と。
そうならないようにあの人はああ言ったのだろうけれど。
一緒に来いと言った上司からは仕事で少し遅れるから先に入っていろと連絡があり、素直に従ったアデスは外で待っていれば良かったと心底後悔していた。
場違い、そんな言葉しか浮かんでこない。煌びやかな装飾。見事に飾り立てた人々。上流階級の雰囲気。仮面で隠せるものなどどれほどあるだろうか。
黒いシンプルな仮面で目元を隠したアデスは自分は自分でしかない、と少々の情けなさを再び溜息に乗せた。
「溜息をつくと幸せが逃げると言うが?」
不意に横からかけられた聞きなれた声にアデスは嬉々として身体ごと横に向けた。そして、固まった。
目の前に現れた上司はいつもの白い仮面ではなく、ピエロのような黒の模様が描かれた銀色の仮面をしていた。口は笑っているように見えたが目は泣いているように見える。
服装は黒のフロックコートのスーツに銀のアスコットタイ。髪はかつらなのか、金色の緩く波打ったロングヘアーで誰も彼がラウ・ル・クルーゼだと気付くことはない。
気付くことはないがその美しさに目を、心を奪われていた。
「ったい…」
「名を呼ぶな、禁じられている」
クルーゼはそっとアデスの唇に自分の人差し指を押し当てて言葉を止める。アデスはこんなにもいつもと違う状況に動揺を隠すことが出来なかった。
すると、クルーゼはアデスが顔色を変えながらも押し黙ったのを確認してから手を離すと零すように笑った。
「そんなお前を見るのは久しぶりだ。誘って良かった」
「…それが目的ですか」
「それもあるが、言っただろう?一緒にいたかったんだよ」
「た…っいえ…あまり私を甘やかさないで下さい。付け上がりますよ」
「いっそ付け込んで見せろ、その方が面白い」
アデスの心を更に揺らしながらさらりと言いのけたクルーゼはふとアデスの胸元を飾る赤い薔薇に目を留めて、それを指で撫でた。
「珍しいな、お前がこういうことに気が利くのは」
「え。ああ、いえ、利きませんよ。入る時に居合わせたご婦人が胸元が寂しそうだとご好意で下さったのです」
「…ほう?」
しばらく間を置くと、クルーゼはひょいとその薔薇を抜き取り、自分の髪に挿した。
「隊長っ?」
「呼ぶなと言っている。踊ってみるか、アデス」
「は!?あの、男同士では…」
「最近は男装の麗人も多いと聞く。それなりに見えるだろう?」
それなりどころではない。アデスは思ったが問題はそこではなく、自分のダンスの技術であることを告げたがクルーゼは笑ってアデスの手を引いた。
「気にするな。私がリードするから適当に付いてこい」
「て、適当って…っ」
アデスが拒否しきる前にクルーゼはフロアの中央辺りに彼を引っ張っていき、周囲が注目しだして後には引けないような空気になってしまった。
「た、たいちょ…」
「ほら、音楽が始まる。足を踏んでくれるなよ」
クルーゼのリードは見事だった。小声でステップを囁き、先に手を引いてリードしつつも周囲からはそう見えないようなダンスだった。
それでもアデスは全く余裕がなく、クルーゼの操り人形のように動くのが精一杯だった。ただ、クルーゼの楽しそうな様子が何だか嬉しくて後半はアデスも少し楽しむことができた。
舞踏会の後、二人はクルーゼが予約していたホテルの部屋に入り、順にシャワーを浴びてからシャンパンをあけた。
「ご苦労だったな」
「そうですね、正直疲れましたよ、ダンスというものは…ですが、楽しかったです。意外でした、隊長もああいう場は苦手かと思ってましたが」
「まぁ、苦手だが普通のパーティーよりはいい。仮面舞踏会はこの世で唯一、平等な場所だ。世辞を言う必要もなくて楽は楽だな」
「は?」
「貧富の差、階級の差、男女の差でさえ無関係だ。あの時、あの場所に立つ者達だけは皆平等だという」
そう語るクルーゼの表情は無表情でアデスは彼が何を思っているのか知りたくて深く彼を見つめた。けれど、彼は笑って受け流してしまった。
「別に深い意味はない。そう本で読んだだけだ…滑稽だな、本当は憎むべき者、愛すべき者だとしても気付くことはないのだから」
「そうでしょうか。私は思い知りましたよ。仮面をしていようとも私は私でしかないのだと。隊長も仮面をしていても私だと気付いて下さったではないですか」
「それは…」
「私も隊長だとすぐに分かりましたよ。仮面越しでも愛すべき者だと気付くこともできます」
「…もう酔ったのか?」
「ははっ、いくら私でもシャンパンでは酔いませんよ。本音です」
「では、私の本音も聞かせようか」
「はい?」
クルーゼはテーブルの上に置いていた、先程まで髪に挿していた赤い薔薇を手に取るとおもむろに握りつぶした。
アデスは目を見開いて固まり、クルーゼの指の隙間からは赤い花びらが零れ落ちていった。
「私にも人並みに嫉妬心や独占欲というのがあるらしい」
「え…」
「気に入らなかったんだ、お前が他の誰かから貰う好意など」
「隊長…」
「おかしいな、私のが酔ったようだ。言うつもりではなかったのだがな」
向かいに座るクルーゼが自嘲気味に笑い、どうしようもなく愛おしいとアデスは想う。アデスは立ち上がるとクルーゼの横に立ち、彼が薔薇を握りつぶした手の平を引き寄せて付けた。
「…隊長、立てますか?」
「…さて…酔ったと言っただろう?立った途端、倒れるかもしれないな?」
「では、失礼」
そう言ってアデスはクルーゼの身体を抱き上げ、クルーゼも腕を伸ばしてアデスの首に絡ませるとそのまま口付けた。角度を変えて、何度も深く繰り返した後、
クルーゼがアデスの肩に顔を埋めるとアデスがベッドに移動して、ゆっくりクルーゼをそこに降ろしながらその上に覆いかぶさった。
アデスがクルーゼの耳元で小さな囁きを零し、クルーゼがゆっくり目を閉じると二人きりの夜は始まった。
アデスは逃げると言われた溜息に乗るくらいの幸せならこの人の側にいるだけで取り戻せると確信していた。
終