小説 武男 様
アデス×クルーゼ
汚れ―――
アデスはプラントの、軍人用宿舎の自室で寝ていた。時刻は深夜の零時。寝たのは10時だったから、普段ならば絶対に目を覚まさない時間帯だった。
だが、玄関から音がしたような感じがして、アデスはすばやく身を起こした。側のキャビネットの引き出しを引いた。薄い手帳や文房具が中には入っていたが、底の板を押してずらすと、そこから一本のサバイバルナイフが姿を現した。
アデスは冷たい表情でナイフを握ると、ゆっくりと玄関へと向かった。
「はい?」
一応の応対の返事を出す。だが、返答は無かった。そのまま廊下を渡り、ドアノブに手をかける。そして一呼吸空けて、ナイフが振れるだけドアを開けた。だが、そこには誰もいない。
「?」
そしてすぐに、何かが倒れるかすかな音が聞こえてきた。下に目を向けると、何とラウが倒れていた。
ドアに身を凭れるようにして座っていたのだろう。ドアに背が付いたまま体を曲げていた。
「隊長!?」
アデスは血相を変えてラウを抱き上げた。外は雨だ。傘も差さずに来たのだろう。服はびしょぬれで、体は氷のように冷たかった。実は顔を隠すものは何も身につけていなかったのだが、そんなことはアデスの気にも留まらなかった。
「隊長!しっかりして下さい!アデスです!聞こえますか!?」
ラウは眉を寄せ、声を発した。
「…ぁ……。」
「そうです、アデスです!まず体を温めましょう。準備してきます!」
アデスは立ち上がり、バスルームの準備をしようとしたが、ラウの手が止めた。振り返ると、ラウは衰弱しきった様子で必死に言った。
「…こ、まま、いい…。」
「何言ってるんですか。このままでいいわけないでしょう。」
「…てるから。」
「え?」
ラウは袖を引っ張って、必死に顔を上げた。
「…汚れ、てるから…。」
アデスはそれで全てを理解した。
『また本国から召喚ですか?』
艦の中での伝令を読み、アデスは溜め息混じりに言った。一方、召喚を受けた本人であるラウは、大して気にもしていないようだった。
『大方、もよおしでもしたのだろう。まったく、妻にも相手にされない涸れた親父ってのは嫌なものだ。』
アデスは正面を睨んで考え込んだ。この人は時々、謎かけのように言葉を投げかけてくることがある。その謎を解くのが、艦長たる自分の仕事だ。そう気まじめにも思っているからだ。
ラウはそんなアデスを見て、くすりと笑うと、ふわっと顔を横に付けた。
『分からないかな?』
ラウはアデスの耳に口を付ける。そして、ほほ笑みながら事もなげに言った。
『私は男に体を売っている。』
アデスは目を見開き、固まった。息を伴った囁き声だから、恐らく自分以外には聞こえていないだろう。ラウは楽しむような笑みを浮かべたまま、続けた。
『言っただろう?私は必要のないものは、容赦なく切り捨てると。
逆に…必要なものは、どんなことをしてでも手に入れる。この体が、どれほど汚れようがな。』
アデスはぎりっと歯を食いしばった。
「…今さら…あなたと私に、綺麗も汚いもありませんよ!」
アデスは手を乱暴に振りほどくと、お風呂場へと駆け込んだ。バスタブにも湯をため、シャワーを出しっ放しにする。湯気がバスルームに立ちこめた。
すぐに戻ると、ラウの身体を抱き上げる。そして、バスルームに一緒に入った。
バスタブにラウの身体をもたれさせ、口でシャワーのノズルを咥え、ラウの冷え切った体にかける。まだバスタブに湯が溜まっていない。それまでに濡れた服を脱がせようと思ったのだ。
白いワイシャツのボタンを外していく。そこで、ある異変に気付いた。
ラウはインナーを着ていなかった。まぁ、上半身だけなら、と思った。男なのだから、着ていないことも往々にしてよくあることだろう。
だが、ズボンのファスナーを下ろして、ますます驚いた。
何と、パンツもはいていなかったのだ。
確かにこの若者は、服を着るのすら億劫に思っていた節がある。だが、幾らなんでも下をはかないということは無いだろう。
そう言えば…
アデスはある考えにたどり着いた。
何故この人はここに来たのだ?
もし自分がたまたま目を覚まさなかったらどうするつもりだったんだ?こんな衰弱しきった体で雨に当たれば、どうなるかぐらい…軍人ならば、この聡明な人ならば、分かり切った話のはずだ。
そこで、アデスは凍りついた。
…違う。?もし?なんて、考えてすらいなかったのだ。
私が目を覚ますかどうかなんてどうでもいい。むしろ、目を覚まさないほうがいい。ただ、ここにいたい。ただその一心のために、逃げて、動かない身体を無理やり引きずって、ここに辿り着いたのだろう。
「ぅ…。」
ラウがかすかに呻いたため、アデスははっと現実に返った。
…いけない。自分を責めるのは後だ。今はこの人を救けなければ…。
アデスはラウのズボンを脱がした。そのまま抱き上げて、湯船の中に入る。
「あぁ……。」
ラウが物憂れげな声を出した。少しは楽になったかな、と思い、ほっとしていると、再びアデスは衝撃を受けた。
お湯の中に、白くてどろりとした液体が浮かんでいる。
アデスはそれを見た瞬間、ラウの身体を抱いた。そんなものを見たくなかったというのもあるが、何より、自分がそれを見てしまったことを、この人に気付かせたくなかった。
「…見、たか…?」
「何をですか?」
アデスは必死に普段の声色を出そうと努めた。ラウはやはり意識が朦朧としているのだろう。普段ならわずかな違いにも目ざとく気付くのに、逆にほっと吐息を吐いた。
「ん…。ふ…ぅ…ん…。」
鼻にかかった声を漏らす。それに応えるように、白い液体が増えた。アデスは怒りに顔をしかめ、懸命にそれが彼の身体に触れないように遠ざける。
それらすべてを忘れようとするかのように、アデスは最初に考えていた通りのことをしようとした。握りしめていたハンドタオルを絞り、胸の中の身体を腕へと移し、冷え切った顔にそっと押しあてた。
少しずつずらしながら、顔全体を拭いていく。
ラウが気持ち良さそうにほほ笑んだ。
ラウの身体がほんのりピンク色に染まっているのに気付き、アデスは、そろそろかな、と思った。ラウの身体を支えながら、今度は自分の服を脱いでいく。
完全に脱ぐと、身体を抱いてから、「行きますよ。」と一言言ってから湯船から上がった。やはり、なるべくこちらの負担にならないように、少しだけ体に力を入れている。
バスルームから脱衣所へ移動すると、側のかごに突っ込んでいたバスタオルを、3枚ほど床に広げた。そこにラウを横たえ、バスタオルで包むようにして体を拭く。普通のタオルで髪も拭き、生乾きぐらいになったところで、自分の身体も拭いた。
恐らく一番接触するであろう胸や腕は丹念に拭くが、それ以外はぱっぱと済ませた。ラウの身体が冷えていないことを確認すると、急いで服を取りに行った。
タンスからシャツタイプのインナーを2枚取り出す。上に着せるのも前開きのタイプで、少し前がごわごわするかもしれないが、なるべく体に負担をかけたくなかった。下も短パンをもう1枚はかせて、なるべく暖かいようにする。
自分のはなるべく薄手のものを選んだ。これなら、熱を早く彼に届けることができるだろう。
一連の工程を十数秒で整え、アデスは急いで戻った。当たり前だが、ラウはそのままの格好だった。
アデスは最初に自分の服を着こんだ。パンツにズボンに薄いシャツに、終わるまでに何秒もかからない。
「服を着せますから、力を抜いてください。」
寝ているとも思ったが、少しラウは呻いた。
身体を抱き起こして、まずは下から始める。細い足首から下着を通して、これまた細い腰に引き上げる。短パンも同じように。ズボンを引きあげた時に、腰骨辺りに朱い点を見つけたが、見なかったことにした。上の方はあらかじめ重ねて、まとめて通してしまった。身体を自分の体にもたれさせながら、ボタンを丁寧に留めていく。
その間ずっと、首は力なくしだれ、されるがままだった。
作業が終わると、アデスは相変わらず枯れ枝でも持ち上げるかのように、ひょいと抱え上げてしまった。
負担にならないように、なるべくそっと歩く。ラウは相変わらず苦しげに眉を寄せ、力無くアデスに身を任せていた。息も静かで、本当に生きているのかと不安になる。肌も蒼白で、首筋には濡れた髪が張り付いている。
寝室に入ると、アデスはそっと、ベッドの上に抱いた身体を横たえた。先程服を取りに来た時に、あらかじめ布団ははいであったので、後は掛けるだけだ。先程まで自分が寝ていたので、まだ中は暖かかった。
ちらりと時計を見てみれば、時刻は午前1時。1時間程度でよくもまぁ…。アデスは苦笑を浮かべた。
もぞりと傍らの人物が動いた気配がしたので、アデスはそちらを向いた。
「…アデス…。」
「はいはい。お側におりますよ。
大丈夫です。」
何も言わずとも、呼ばれるだけで、言いたいことは痛い程に伝わった。柔らかい髪越しに頭を撫でてやる。
「そういえば、明日のご予定は?それだけは確認いたしませんと。」
「…ない。私が言うのだからない。」
億劫そうな口調で言われる。アデスは、珍しい彼のワガママに苦笑する。
「了解いたしました。服は処分しておきますね。」
わざとサラリとした口調で言った。一瞬体が固まるが、すぐに柔らかくなった。
「…任せる。」
「承知しました。」
穏やかな時間だった。静かになったので、もう寝たのかな?と思ったが、ふいに背中に手を回された。アデスも手を回して、そっと抱きしめてやる。
アデスの顔には、幼い子供に対する時のようなほほ笑みが浮かんでいた。
「どうかなさいましたか?」
「…別に。どうでもいいだろう。」
「ええ。どうでもいいですね。暖かいですか?」
「…暖かい。暖か過ぎる。
アデス。どうしてお前はこんなに暖かいんだ?」
凛とした口調ではあったが、手は震えていた。アデスは目を閉じる。
「…あなたが冷た過ぎるんですよ…。」
アデスは自分が、「暖かい人間」だとは思わない。「暖かい人間」とは、もっと愚鈍で、もっと優しい人間だ。
「…ならば私の周りの人間は、みんな冷たいというわけか。」
ラウは最後にそう吐き捨てて、気を失うように眠ってしまった。アデスの頬に、重みが広がる。
アデスは憤った。彼に暖かさを教えられなかった人間達に。そして、何より恨めしかった。彼に冷たさしか与えない「世界」が。
彼は何よりも誰よりも「暖かい人間」になれるはずだったのだ。自分なんかよりよっぽど立派で、他人を包み込むことができる人間になっていただろう。後ほんの少し、世界が優しかったら。後ほんの少し、誰かが優しかったなら。彼は自分自身を切り刻むような、こんな残酷な望みをしなかっただろうに。
自分はそれになれた。
だが、出会いが遅すぎた。たったそれだけ、だが全てのこと。
それすらも、世界が彼に与えた罰なのだろうか。
だとしたのなら、何と救いようのない…。
彼の何が悪いというのだ。彼はただ生まれただけだ。それのどこに罪があるというのだ…!?
…そう思う自分は、やはり少し歪んでいる。それでも「世界」を想うのなら、大切な誰かを想うのなら、今ここで彼を殺してやるべきだ。
アデスは、ふっと笑った。
糞食らえだ、そんなもの。
私は偽善者にはなれない。彼の命と苦しみを知りながら、それでも尚護りたい世界があるとは思わない。思えない。
彼の命と叫びを踏み台に、笑い合えはしない。私だけでも、彼を裏切らない。
私は綺麗でいたくはない。
逆に、汚れたい。
彼と一緒に、彼と共に、汚れてしまいたい。
それくらい、許してくれたっていいだろう?